空洞


男は交差点に光る赤の信号が、ちかちかと瞬きをするのを退屈そうに眺めていました。

男は身体を清潔にした溝鼠のようで、近付きがたいほどに隔絶されているわけでもなく、けれど、好ましいというものでもありません。

曲がりも返しも無い釣り針のように、一体何がしたいのか、あるいは、何が出来るのか、おおよそ、それは男にもわからないのです。

時間に背中をつっつかれ、友人に手を引かれながらここまで来ていましたから、知らないうちに、自分というものを、どこか道の端にでも落っことしてきたのかもしれません。

そうでなければ、一体自分は何のために存在しているというのでしょうか。

そう考えると、男は風船のように空っぽなのでした。

まるで頭の先から糸で吊るされたような、力のない四肢を垂らして、交差点の信号が青に変わるのを待っているのです。

時間は長く、永遠のようにすら感じられ、そのうち、自分が生きている事が他人事のように思えてくると、いっそ消えてしまいたいとさえ思うのでした。

そうして、自分を否定して生まれた痛みで、どうにか眠気に抗っているのでしょうか。

それとも、傷口から滲む血液を舐めて、腹の足しにでもしているのでしょうか。

男はただ、信号の前で突っ立っているのでした。

そうして、幾日かが過ぎた頃に、男は、ふと考えました。


「自分なんて、飼い慣らさなくてはいけない手の掛かるだけのもので、本当はただの枷なのかもしれない。自分のない空っぽの僕は本物の自由を手にしているんだ」


そう思って周りを見ると、皆一様に首輪を着けて、そこから伸びた紐の先を、自分で握っているのでした。

男はおかしくてたまりませんでした。

今すぐに飛び上がってしまいそうな気持ちを押さえつけようとして、はっとしました。

今、この気持ちを抑えつける事が、自分の中に自分を作ってしまうのではないかと、心配になったのです。

男は慌てて自分の首元や、手首や、ありとあらゆる場所に輪っかか何かが付いていないかを調べました。

上着を脱いで、ポケットをひっくり返して、慎重に調べましたが、男には何もついてはいないのでした。

男はとても嬉しくなって、飛び上がりながら大声で笑いました。

まったくおかしいのです。

周りの人は赤信号を進もうとする自分を、首輪に付いた紐を必死に引いて、それで息が出来ずに噎せ返ったり、それがひどい人は間違って死んだりしてしまうのですから、もう惨めなどという言葉では足りません。

そう思った時、男ははじめて生きていたのでした。

男は隣に立っている堅実そうな犬男があまりに堅実そうにしているので、それが段々と不愉快に感じられ、懐に悪意を隠しながら犬男に言いました。


「そこのあんた。向こう側へ行ってみたいと思わないか?あんたがその気なら僕も協力するよ」


堅実そうな犬男はやっぱり堅実で、男には一瞥もくれず、真っ黒に書き込まれた手帳に何度も目を通しているのでした。

男はがっかりしました。

そんなに自分を押さえつけているなんて、哀れだと思ったのです。

男は気を取り直して、もっとそれらしい男はいないものかと、辺りを見回しました。

ちょうど、身体中に鎖を巻き付けた狼男がいました。

男はしめしめと彼の側まで寄って行って、耳打ちをしたのです。


「あっち側は、それはもう素晴らしいところだったよ。ほら、昔話に出てくるような、あんな感じさ。僕は赤信号を、車に注意しながら渡った。今なら車も少ないし、赤信号を渡るチャンスなんだよ。どうだ、一つ僕が手を貸してやろう」


男は彼のポケットから鎖の鍵を引き抜いて、彼の鎖を外してしまったのです。

狼男は鎖が緩むなり、真っ直ぐ、交差点に駆け出して行きました。

それとほぼ同時にけたたましいクラクションが耳を引き裂くくらいに大声をあげますと、狼男はもはや道端に転がっているのでした。

男は唖然としました。

まさかこんな事になってしまうとは思っていなかったのです。

自分のしでかした事をだんだんと理解してくると、吐き気のような気持ち悪さが込み上げて、男はその場に膝から崩れて丸まってしまいました。

男は震えていました。

狼男を殺してしまった事にでしょうか。

あるいは、その罰にでしょうか。

ただ、こうして丸まっていれば、誰かが庇ってくれるかもしれない。

あるいは、慰めてくれるかもしれないと思っているのかもしれません。

そんな男の後ろから、べったりと貼り付く紅のドレスで包装された女が、コンパスのような脚をしならせながら歩いて来ました。

女の瞳は宝石のように、吸い込んだ光を閉じ込めていました。


「これ、貴方のものでしょう?」


女はそう言って、男に向かって右の手を差し出しました。

男は立ち上がって、差し出された女の右手に目を落とします。

その手には何も無く、男は思わず、女の手のひらを覗き込みましたが、やっぱり何もありません。

女は、一度だけからかうような笑みを見せると、今度は一瞥もなく、男の横をすり抜けて、横断歩道へと向かっていきます。

すると今まで赤だった信号が、突然、青に変わったのです。

その瞬間、信号を待っていた民衆は首輪に繋がる紐を、今までにないくらい強く引きました。

両の手でしっかりと紐を掴んで、身体のあちこちに弾けそうな血管を這わせながら、顔を真っ赤にして耐えているのです。

女のハイヒールがコンクリートを打ち付ける度に、その力は強まっているようでした。

男は呆然と、その異様な光景を眺めていましたが、不意に、男の身体は何かの力に引っ張られて、前のめりになりました。

右の足で身体を支えながら、一体どうしたものかと、自分の身体に視線を落とすと、男の胸の真ん中から、一本の紐が何処かへ伸びているのでした。

男はぎょっとして、途端に粘り気のある汗が身体中で滲み出すのを感じました。

男から伸びた紐の先は、女のドレスの裾に絡まっているのです。

男は紐を外そうと、強引に手繰り寄せますが、紐はびくともしません。

男は狼狽えながら、けれど、女のハイヒールがコンクリートを打つ度に、じりじりと交差点に近付いていくのでした。

男は考え付くだけもがきましたが、男を引き寄せる力が弱まる事はありません。

やがて、女が向こう側へとたどり着くと、女は振り返って止まりました。

男と女の距離は、ちょうどあちらとこちらの幅と同じでした。

女は男を見ていました。

男はいつの間にか恐怖が抜け去っていました。

それどころか、安堵に近い気持ちでいました。

男は青の信号がちかちかと瞬くのを眺めていました。

この信号の瞬きが終われば、また赤の信号です。

男が女に視線を戻すと、女は男に手招きをしているのでした。

そもそも、男はどうして、青の信号に近づく事を恐れていたのでしょうか。

女に引き寄せられるまま、青の信号を渡ってしまえばいいのです。

けれど、男は今までで一番、漠然と信号を眺めているのでした。

女は一瞬、残念そうな顔をしました。

途端に大きなトラックが、交差点を駆け抜けて、男から伸びた紐は、それまでの力が嘘のように千切れたのでした。

トラックが過ぎ去った後、交差点の向こうに、女はいませんでした。

男は赤の信号を眺めているのでした。

眺めているうちに、男はふらふらと赤信号にすいよせられて、一歩、二歩と赤信号に近づいた時、クラクションが響いたのでした。